ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第230話 中国残留日本人の足跡

序文・戦争のしわ寄せは弱者に及んだ

                               堀口尚次

 

 中国残留日本人は、第二次世界大戦末期のソ連軍侵攻と関東軍撤退により日本へ帰国できず、中国大陸に残留した日本人である。日本の法律などでは、中国在留邦人ともいう。

 満州事変の直後に、日本は清の最後の皇帝である溥儀を担ぎ出して現在の中国東北部にあたる旧満州満州国を建国し、同時に満州事変以前より提唱されていた日本の内地から満州への移住計画の「満蒙開拓移民」が実行され、32万人以上の開拓民を送り込んだ。当時の日本は、アメリカ合衆国発の世界恐慌から引き起こされた昭和恐慌にあり、地方の農村地域は娘を身売りさせる家が続出するなど困窮、疲弊しきっており、農業従事者の移民志向も高いことから大規模な移民となった。

 第二次世界大戦末期に、ソ連は日本と結んでいた中立条約を一方的に破棄して宣戦布告して満州国へ侵攻した。関東軍は民間人からトラックや車を徴用して列車も確保した。軍人家族らはその夜のうちに列車で満州東部へ避難できたが、翌日以降に侵攻の事実を知った多くの一般人や、遅れをとった民間人らは移動手段もなく徒歩で避難するしかなかった。国境付近の在留邦人のうち、成人男性は関東軍の命令により「国境警備軍」を結成してソ連軍に対峙したことから、避難民は老人や婦人、子供が多数となった。

 ソ連侵攻と関東軍の撤退により、満州における日本の支配権とそれに基づく社会秩序は崩壊した。内陸部への入植者らの帰国は困難を極め、避難の混乱の中で家族と離れ離れになったり、命を落とした者も少なくなかった。遼東半島ソ連軍が到達するまでに大連港からの出国に間に合わなかった多くの人々は、日本人収容所に数年間収容されて帰国が足止めされた。収容所での越冬中に寒波や栄養失調や病気で命を落とす者が続出して、家族離散や死別の悲劇が生まれた。この避難の最中に身寄りがなくなった日本人は、幼児は縁故または人身売買により中国人の養子として「残留孤児」に、女性は中国人の妻として「残留婦人」になり命脈をつないだ。

 日本国政府は、のちに中国大陸に成立した中華人民共和国と国交を結ばず、「未帰還者留守家族等援護法」を制定し集団引揚げを終了し、「未帰還者に関する特別措置法」を制定して残留孤児らの戸籍を「戦時死亡宣告」で抹消した。

 多くが日本語はほとんど身につけておらず、日本での社会適応能力に乏しく、帰国者の8割以上が生活保護を受けており、国や政府からの援助金や、寄付金などで生活をしている。社会から孤立、高齢化など様々な問題が起きている。

f:id:hhrrggtt38518:20220205064527j:plain