序文・地元としては忠臣蔵の悪役で終わらしたくない
堀口尚次
黄金堤(こがねつつみ)は、愛知県西尾市吉良町にある江戸時代に造られた堤防のことである。元々は「小金堤」という漢字が当てられていた。伝承から別名「一夜堤」と呼ばれ、現在は桜の名所となっている。吉良町指定史跡。
この堤がある一帯は、増水のたびに隣藩上流の広田川、須美川から流れ込む水により洪水が起こり水路もたびたび変わるという泥沼地帯であった。そのためその南にある吉良地区は洪水が起こると田畑や家財が流される心配があり、流れを矢作古川に合流させるように鎧が淵の上流に長さ180メートル、高さ4メートルの堤が築かれた。水が洩れないように粘土が使用されるなど現在の技術からみても優れたものであるとされる。
伝承の中には貞享3年に吉良義央〈吉良上野介〉が水田地帯の住民を救うべく私財を投じて、領民の力を結集し一夜にして築堤されたというものがある。この堤で吉良8千石が水害から守られ金色の稲穂が田を彩るようになったことから黄金堤と呼ばれるようになったとされる。もっとも義央が現在の黄金堤を築堤したとする同時代史料は、現在までのところ確認されていない。
実際には、当時の三河における吉良氏の所領は三つの飛地になっており、その所領も九箇村合わせて3200石未満であった。立地から見て実際に黄金堤の恩恵を受けたであろう地域はさらに限定され、旧吉良領の岡山村と隣領の瀬戸村との境界付近のごく一部のみであったと考えられる。「黄金堤」の名称に関しても、その存在の初現は、明治17年の瀬戸村整埋図であり、仮に江戸期に構築されていたとしても義央の治績として裏付けるものは何も無い。
当時の吉良家は、義央の浪費により財政的に困窮していた状態であり、自領内の開発費用を捻出するのも相当困難な状況であったことがわかっている。伝承の中には、よく読むとそうした状況が反映されているという見方がある。前述の「一夜堤」の逸話も、吉良家が動員させた領民に一日分の対価しか払われなかったために「一夜堤」と呼ばれるようになったという話があり、本来領主である吉良氏が負担するべき新田開発などの私領普請に対して、領民に過度の負担を強いていた様子が見て取れるという。
私は過日、菩提寺の華蔵寺・吉良陣屋跡・黄金堤を訪ねて吉良公を偲んだ。