序文・木曽三川宝暦治水で薩摩藩士が普請を行ったことを知らない人もいる。普請自体が大変なのは勿論だが、裏に隠されていた、幕府・代官・地元旗本・庄屋・農民との確執など様々な問題が山積されていた。
堀口尚次
木曽川・長良川・揖斐川(昔は伊尾川)は木曽三川といわれ、濃尾平野に潤沢な水を提供した半面、洪水・氾濫の繰り返しという流域住民との長い闘いの歴史がある。このため木曽三川の河口流域は輪中といわれるいくつものいわば島のような地形の集合体のようになっていた。
江戸時代たび重なる洪水・氾濫に悩まされた流域住民は幕府に治水工事を懇願した。幕府は「御手伝普請」とう、工事の監督は幕府が行い、費用や人足は藩がもつという一方的な命令を藩に下した。実際に藩の石高に応じて、二本松藩・薩摩藩・長州藩などに命が下っている。この中で最大規模となった薩摩藩に下った御手伝普請で、いわゆる「宝暦治水工事」について考察する。
工事費用は当初の15万両から結果40万両(現在の300億円に相当)という膨大な額に及び、人足も薩摩藩士947名が国許及び江戸藩邸から普請に赴いた。人足は現地雇いを合わせると2000人にのぼったと言われている。
国許では当初この幕府の横暴な普請命令に対して藩論が二分し、幕府と一戦交えてでも抗議するとした進言が相次いだが、家老の平田靱負が諫めた。平田は「この命令を断れば幕府との戦いになる。戦で国を滅ぼすよりも、たとへ縁もゆかりもない他国とはいえ、同じ日本のうちの難儀を救うことは人間としての本分ではないか、美濃の人々を救い、薩摩魂を見せてやろうではござらんか。」と諭し、若年の薩摩藩主・島津重年も「苦しく辛いだろうが、いま平田の申す如く、一同の者、水と闘ってくれぬか」という哀願にも似た言葉に藩士達は暗黙の追随をしたのである。
幕府側の総責任者は勘定奉行の一色周防守、監督者として水行奉行の高木新兵衛が命じられ、一の手から四の手までの四区間にそれぞれ拠点を置いて実施された。高木は美濃石津郡多良(現・大垣)の旗本(交代寄合=江戸に定府しない幕臣)であり水行奉行としていわば幕府と薩摩藩との中間的位置で苦心されたものと推測する。幕府側の拠点は美濃郡代笠松陣屋(現・岐阜県羽島郡笠松町)に置いた。美濃は天領(幕府直轄地)なので郡代がおさめていた。
薩摩側は、家老・平田靱負を総奉行に、大目付・伊集院十蔵を副奉行に任命し美濃養老の大巻(現・岐阜県養老町大巻)の豪農鬼頭兵内方を拠点とした。
かくして宝暦4年2月から木曽三川工事は始まったが、困難の連続であった。治水工事自体が難工事であることはもとより、幕府側から薩摩藩士に対するいやがらせが相次いだ。最初に抗議の自害者(割腹)が薩摩藩士から3名出たが、薩摩の総奉行・平田は幕府への抗議と疑われるのを恐れたのと、割腹がお家断絶の可能性もあったことから、「腰のもの」=怪我による死として報告した。また疫病(赤痢)による病死者も続出した。これには、薩摩藩士に対する栄養面(一汁一菜という食事制限)や粗末な住居提供や衣類道具全般にわたる高額貸付といういわゆる衣住食における緊縮応対が要因でもあろうと考えられる。
更に、完成した工事自体を破壊工作したり、計画書通りに実施した工事のやり直しを命じたりと理不尽な対応が続いた。薩摩藩士の抗議自害者(割腹)は延べ52名に及び、病死者33名と合わせて85名が犠牲となった。そしてこの自害者は当初の3名と同じく、「腰のもの」=怪我による死として報告されている。
また、監督側の幕府側においても、2名の自害者(割腹)が出ている。幕府直臣の竹中伝六喜伯は監督責任をもって自害したものと見られており、内藤十左衛門は水行奉行・高木の家来で、自分が監督した工事の問題で奉行に責任が及ぶのを恐れての割腹だった。特記すべきは、幕府側の工事監督者・高木内膳の下人・桝谷伊兵衛が治水難工事を目の当たりにして「これは水神の怒りによるものだ、人柱となってその怒りを鎮めよう。」と濁流に身を投じている。幕府側の義歿者2名は水行奉行(美濃の旗本)の関係者であり、ここからも幕府と薩摩藩の中間的役目からくる苦節が垣間見られる。
薩摩藩主・島津重年も世継ぎを幕府に届け出る名目の途上で、美濃の現場へ立ち寄り、薩摩焼酎で藩士を労ったとされる。この時の焼酎徳利が昭和になって地元農家から発見された。(桑名・海蔵寺所蔵)
かくして宝暦5年5月に工事は完了し、幕府側の検分も完了した。実に1年3カ月に及んだ難工事は完遂したが、義歿者85名という大きな代償を伴った。帰路につく薩摩藩士を見送った後、総奉行・平田靱負は大巻の本小屋(薩摩工事役館跡)で割腹自殺した。辞世の句は「住み馴れし里も今更名残にて、立ちぞわずらう美濃の大牧」であった。(墓所は京都の薩摩藩ゆかりの大黒寺)
郷里に帰った藩士達は、犠牲になった同志の鎮魂も兼ねて、油島に薩摩から取り寄せた日向松の苗木を植え、これが現在の千本松原となっている。同じ日向松が水行奉行・高木家の陣屋(現・大垣)にも植えられている。
明治維新後、三重県多度の西田喜兵衛(庄屋や代官を歴任した西田家の末裔)が薩摩藩による宝暦治水工事の遺徳を世に知らせ、義歿者の慰霊と顕彰を行った。明治33年には「宝暦治水之碑」が時の総理大臣・山縣有朋を迎えて建立され、昭和13年には平田靱負を御祭神とする「治水神社」が創建された。
義歿者となった薩摩義士や幕府役人の慰霊碑や墓所は、三重県桑名市・岐阜県羽島市・養老町・海津市・輪之内町など14箇所に及びその遺徳が偲ばれている。(平田靱負自刃の地・大巻工事役館跡には立派な銅像がある。)昭和の伊勢湾台風時の復旧工事では、薩摩義士の遺骨が入ったカメが出土し「懇ろに弔わなかった薩摩義士の祟りではないか」となり、より一層の慰霊・顕彰となった。
幕藩体制下での御手伝普請による治水難工事義歿であるが、外様大藩としての宿命を悟り、日本人として困窮している人々を救うという崇高な理念で藩士を動かし、お家第一で藩を守った家老・平田靱負の最期は、武士道とはいえあまりにも無惨なものだ。また、自害や病死していった薩摩義士や幕府役人の心中を慮ると一掬の涙を禁じ得ない。時に触れて現地を訪れ、慰霊・鎮魂あるのみである。先人の恩恵を尊び、忘恩の徒にならぬよう自らに警鐘を鳴らしたい。
追記1 明治維新の討幕で徳川家に対する厳しい処分で臨んだ薩摩藩の因縁が、
この宝暦治水工事の普請命令に起因するという説もあるが、御手伝普
請は幕府との関係では、徳川家に関する大事業に参加する名誉なこと
と受け止めることが普通であった。工事現場では「松平薩摩守丁場」
という標札を立てるように指示されていることでも分かるように、薩
摩藩主の江戸幕府内での公称は松平氏であった。また藩主・島津重年
も、時の9代将軍・徳川家重から「重」の一字をもらい、島津氏は代々
の将軍の名から偏諱(へんき)を与えられる有力者だった。幕府と島
津氏とは友好的な服従関係があった。但し、莫大な費用と人足手配は
藩にとっては尋常ではなく、また現場での幕府役人らによる執拗なま
でのいやがらせ等が、現場の藩士達の積年の恨みへと変貌し、討幕の
狼煙の一端を担いだ点があったのかも知れない。
追記2 元来の木曽三川の洪水・氾濫の要因の一つが、尾張藩(徳川筆頭親藩)
が木曽川東岸に築いた堤防に起因していることや、濃尾平野の地形が
西へ向かうにしたがって(木曽川→長良川→揖斐川)低くなっている
点にあること。尾張藩にいたっては、木曽川の東堤防より3尺(約90
cm)低い堤防しか作ってはならないという御触れが出されていた。
ここに、幕府・尾張藩・美濃郡代のそれぞれの思惑が交差し御手伝普
という形で、外様大藩で徳川家と親交のある薩摩藩に白羽の矢が当た
ったと推測する。(幕府側はあくまでも石高に応じたとしている。)
治水工事の範囲は、幕府直轄地(美濃郡代)・尾張藩・大垣藩・高須藩・
桑名藩・長島藩にまたがっており、それぞれの利権が交錯していた。
追記3 宝暦治水工事により、上流地域では洪水が増加した側面もある。本格的
な治水工事は、明治になって「お雇い外国人」ヨハニス・デ・レーケ
によって行われた。木曽三川分流工事と砂防工事を設計指導した。
追記4 薩摩藩士の気質は、薩摩隼人からも伺えるように「勇猛・敏捷(びんし
ょう)」で知られることから、忘己利他の精神で邁進したものと偲ばれ
る。薩摩藩宝暦治水の義歿者を特に「薩摩義士」と呼ぶ由縁である。