序文・狂気の沙汰なのか?!
堀口尚次
大川周明(しゅうめい)、明治19年 - 昭和32年は、日本の思想家。
1918年、東亜経済調査局・満鉄調査部に勤務し、1920年、柘植大学教授を兼任する。1926年、「特許植民会社制度研究」で法学博士の学位を受け、1938年、法政大学教授大陸部〈専門部〉部長となる。
その思想は、近代日本の西洋化に対決し、精神面では日本主義、内政面では社会主義もしくは統制経済、外交面ではアジア主義を唱道した。戦後、連合国軍最高司令官総司令部は日本政府に対し大川を逮捕するよう命令、巣鴨拘置所に勾留された。逮捕者には軍人以外の者も多く含まれていたが、結果的に唯一民間人としてA級戦犯の容疑で起訴された。極東軍事裁判被告人選定委員会に提出された報告書によると、訴追の理由として「扇動的な書物を出版し、講演で変革を訴え、超国家主義的右翼団体を結成」「陸軍が合法的独立国家の中国から満州を奪取できるように、満州事変の陰謀をめぐらした計画」が挙げられている。
東京裁判には大川は水色のパジャマを着用し、素足に下駄を履いて出廷した。開廷後、パジャマを脱ぎ始めたり、休廷中に前に座っている東条英機の頭を後ろから音がするほどの力で叩いたり〈この場面を記録した映像が現存している。東條は叩かれようとも激怒したりせず微笑んでいた〉、支離滅裂な言動を行ったため、法廷内で失笑を誘った。15分間の休廷中、オーストラリアのウェッブ裁判長は大川を精神異常と判断し、彼を正式に裁判から除外した。大川は都内のアメリカ軍病院に入院させられ、主治医の内村により梅毒による精神障害と診断された。
マラリア療法による治療を受けたのち症状は改善し、本人も裁判を受ける事を主張したが、裁判所側が裁判能力を回復しているとするアメリカ軍病院側ではなく、「裁判を受けられるまでには回復していない」とする内村の鑑定所見を採用したため、裁判には戻されず、松沢病院での入院が続いた。入院中、以前より念願であったクルアーン全文の翻訳を完成する。なお東京裁判終了後まもなく退院。東京裁判で起訴された被告人の中では、裁判終了時に存命していて有罪にならなかった唯一の人物となった。この間、公職追放となる。
※GHQに取り押さえられる大川(手前が頭をはたかれた東条英機)