ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第18話 幼少期の思い出

序文・還暦も目前となり、幼い頃の想い出の記憶が、なくならない内にと思い、筆を執りました。同年代の人なら共通する項目もあるのではないでせうか?!

                               堀口尚次

 

 昭和38年生れの私にとって、幼少期の思い出と云えば昭和40年代になるわけだが、58歳の今から思えば50年も前のこととなり、記憶の片隅に残っている内に記しておこうと思った。すべてが色褪せたセピア色を辿る旅である。

 私の生家は、東海市荒尾町(当時は知多郡上野町)の渡内地区にあり、田畑が広がるのどかなところだった。平屋建て(当時は平屋が多かった)の我が家は、便所は汲み取り式で、風呂は薪で焚き、当然テレビは白黒だった。また、勿論玄関はあったが、勝手口が通用口であり、玄関を使った記憶がない。近所にニワトリ屋さんがあって、よく卵を買いに行った。卵の重さを計るのは分銅式のハカリだった。家でニワトリを飼うようになってからは、卵を買いに行く事はなくなったが、ニワトリのエサ用の菜っ葉を切ったり、産み落とされた卵の回収などやることは増えた。醤油は、空瓶を持って行き、木の樽から量り売りをしてもらった。豆腐は、おじさんが自転車で売りに来るが、哀愁のあるラッパの音が懐かしい。富山の薬売りのおじさんも置き薬を売りに来たが、その時に貰える紙風船が楽しみだった。粉薬はオブラートに包んで飲んだが、お腹がすいた時には、オブラートだけでもつまみ食いしていた。夏場は食卓にハエ除けの蝿帳があり、天井にいるハエを捕獲するためのハエ捕り器(ラッパを上に向けた様な形)もあった。寝る時には蚊除けの蚊帳も使った。庭には手押しポンプ式の井戸があった。風呂の焚きつけ用の薪として、貰ってきた建築用の廃材をノコギリでよく切った。親父が造った太陽熱温水器は重宝した。

 まだ、スーパーなんていうものがなく「○○センター」と云った小型市場みたいのが主流で、会計はその店ごとで行い、レジスターなんかないから天井から吊り下げられたザルにお金が入っていた店もあったように記憶する。ところどころに、ハエ捕り紙がぶら下がっており、当然レジ袋なんてないから母親達は決まって同じ様な「取っ手付のザルカゴみたいなもの」を持参していた。

 子供達の御用達はいわゆる近所の駄菓子屋で、駄菓子は勿論、ゴジラガメラ仮面ライダーウルトラマンのプロマイド写真なんかもよく買った。柴田(名古屋市南区)のジャスコ(旧イオン)の屋上がミニミニ遊園地みたいになっており、バスに乗って連れて行ってもらうのが楽しみだった。柴田には、映画館もありゴジラガメラを観たものだ。天白川千鳥橋)で釣りもした。

 遊びは自然が相手であり、「セミ取り専用のトリモチ」を駄菓子屋で買ったり、冬場には、凍った田んぼがにわかスケート場とかした。田んぼや畑も遊び場であり、「ツボケ」と呼んでいた稲藁を組んで干してあるものへ飛び乗って遊んだ。あちこちに「くそがめ」と呼んでいた肥溜めがあり、落っこちないようにした。

ポコペン」「じょりかくし」なんて云う軽快な歌にのせての遊びも流行った。

 白黒テレビの記憶は、「ドリフターズ8時だよ全員集合」と「コント55号・欽ちゃん」そして「アポロの月面着陸」と「浅間山荘事件」は衝撃だった。

 自転車はフラッシュ(方向指示器)が派手なタイプが流行りで憧れだったが、私は買って貰えなかった。犬を飯場(はんば・日雇い労働者が詰めているプレハブ小屋)で貰ってきたが、いつの日か鎖ごといなくなっており、母親から逃げてしまったと言われたが、50歳になった頃に母親から「農作業で家の脇道を通るおじさんに吠えてうるさがられたので、保健所へ連れていった」と聞かされて愕然とした。後日、母親は親父に云われて仕方なくやったと云っていた。

 お金は、穴無しの5円玉や100円札(板垣退助)が懐かしい。切手収集が流行り、「見返り美人」「月に雁」なんてのが高値の花だった。遠足や修学旅行などは元より、家族でどこか観光地へ出掛けた時などには「ペナント」を買うのが恒例で、部屋に飾り付けてあった。夏休みはラジオ体操と盆踊りを楽しんだ。

 母親は和裁をしていたので、足踏みミシンをよく動かしていた。霧吹きは口で直接吹き付けて霧状の水を発生させるものだった。ちなみに洗濯機は当然脱水機がなく、2本のローラーに衣類を挟み込んで水を搾り取るものだった。

 親父が熱心に仏前にてお経を唱えるので、よく一緒にお経を唱えたが、正座の足が痛くなるは、内容がわからないお経なのでそれこそ呪文みたいな感覚で唱えていたんだろう。浄土真宗の「御文章・末代無知の御文」の最後のところで、『あなかしこ あなかしこ』と唱えるのだが、文面には『あなかしこ (このは繰り返すの意味だった)』とあるので、私は『あなかしこく』と唱えて笑われた。家族4人の和唱でなく一人で唱える箇所が回って来るのが嫌だった。

 私は偏食がひどく、母親には苦労をかけた。魚のサシミがどうしても食べられないので、私の分だけサシミを焼いてくれた。母親は稲荷寿司(コンコン寿司と呼んでた)と鬼饅頭(サツマイモの蒸かし饅頭)をよく作ってくれた。

 祝日には決まって親父が、玄関先に国旗を掲げる家だった。正月には、各部屋に鏡餅を供え巡拝したものだ。その鏡餅用のウラジロ(餅の下にひく葉)を近所の雑木林に取りに行った。時計の設計技師だった親父の関係で家には柱時計が各部屋ごとにあり、時間になると「ボ~ンボ~ン」とうるさかった。柱時計はみんなゼンマイ式なので、ゼンマイを手で巻くのもよくやった。

 親父の在所が岐阜県大野町だったので、今は亡き名鉄谷汲線に乗って行った。岐阜駅から市内電車の谷汲線に乗り換えるのだが、電車の扉は自分で開けるタイプだった。一番前に陣取り運転手の運転の様子をいつも眺めていた。在所の本家(ほんや)は大きな家で親戚一同が集まるので賑やかだった。慣れるまで五右衛門風呂には戸惑った。土間やかまどがある古い造りだった。便所も陶器ではなく木製タイプで、手洗いは便所の外に吊るされたプラスチックの丸い容器を下から押して水を出す仕組みだった。冬は寒いので大きな練炭火鉢が活躍していた。祖母は私の事を「おまはん」と呼んでいた。父方の祖父は私が小学校低学年の頃に他界しているせいか、ほとんど会話した記憶がない。

 母方の在所は東海市荒尾町の平島地区にあり近所だった。玄関入ったところに防空壕の跡があった。母方は7人兄弟で、父方は6人兄弟だったので、お年玉が楽しみだった記憶がある。母方の祖父ともほとんど会話した記憶がない。

 近所にお兄ちゃん達が沢山いてよく遊んでもらった。特に、すぐ隣の家のお兄ちゃんにはよくしてもらった。父方の従兄弟はみんな岐阜だったので、盆か正月ぐらいにしか会わなかった。保育園児ぐらいの小さい従兄弟の手を引いて花火を観に行った記憶があり、弟がいない私はすごく可愛く感じたものだった。

母方の従兄弟は近所にもいたが、そんなに遊んだ記憶はない。

 私は、平洲保育園から平洲小学校へあがり、4年生の2学期から分校(後の渡内小学校)に移り、上野中学校へあがった中学1年の冬に、南ヶ丘地区へ引っ越しをした。中学校が近くなったし、新築の2階建ての家ということもあり、すごく嬉しかった記憶がある。渡内の旧宅跡は交差点になってしまった。

 考えてみると、私の幼少期の思い出は渡内の家で過ごした数年間である。渡内の八幡神社の秋祭りは今でも続いているが、当時とは似て非なるものに変貌してしまった。「猩々メッタ」「獅子舞での町内巡り(お菓子やお金がもらえた)」など年に一度の一大イベントだった。八幡神社は「しくいち」と云って、4と9の付く日に花火(音のみ)があがり、出店や露店が並んだ。すぐ近所のお墓も遊び場だった。昔は神社やお寺やお墓が生活の身近にあったのだ。

 小学校時代に遊んだ同級生も様々に人生をおくっているが、音信の取れない友もおり寂しい限りである。他界した同級生は無念だが、思い出のページに焼き付いている。携帯電話が進化して連絡がついた同級生とは、小さな同窓会みたいな形で再会も果たせた。小学校の先生は一人再会したが憶えてらっしゃらなかった。私の両親・祖父母・兄・従兄弟・近所のお兄ちゃん・友達・渡内の家・渡内集落全域(勝山・泉・南ヶ丘・荒尾住宅)、床屋(カタギリ)・駄菓子屋(またさ・こまさ・はなさ・東京パン)、寺中のバス停留所(丁寺屋)、集団登校の分団集合場所、渡内公会堂、など沢山の思い出が詰まっている。荒尾住宅や渡内小学校が出来る前の山林にも母方の在所のみかん畑等があり、よく探検などと称して訪れたことも特に懐かしい。点在していた小池で釣りもした。 

 こうして振り返ってみると、半世紀前の記憶が走馬灯のように現れてきた。母親は認知症になり昔の話ができないのが残念だが、近所の老人ホームにいるので、面会して昔を労いたい。親父は健勝であり、仏教(浄土真宗)・神道護国神社関連)・歴史(戦争全般や勤務した会社)など多岐に渡り研鑽している。

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 つぼけ(これは最近の画像ですが、今でも残ってるんですね)