ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1082話 日本のテレビの父・高柳健次郎

序文・世界で初めて成功

                               堀口尚次

 

 高柳健次郎明治32年 -平成2年〉は、日本の工学者、日本ビクター元副社長・技術最高顧問。静岡大学名誉教授。日本のテレビの父と呼ばれる。文化勲章受章。

 静岡県浜名郡和田村〈今の静岡県浜松市中央区安新町〉に生まれた。静岡模範学校を経て大正10年、東京高等工業学校〈現・東京工業大学〉附設工業教員養成所卒業。同年、神奈川県立工業学校〈現・神奈川県立神奈川工業高等学校〉教諭、大正13年に浜松工業高等学校〈現・静岡大学工学部〉助教授となり「無線遠視法」〈テレビジョン〉の研究を本格的に開始する。

 大正天皇崩御昭和天皇が即位した昭和元年12月25日、高柳ブラウン管による電送・受像に世界で初めて成功した。送像側にニプコー円板を、受像側にブラウン管を用いて、片仮名の「イ」の文字を送受像した。走査線の数は40本だった。「イ」の文字はいろは順の最初の文字として選んだ。 昭和2年、文部省の自然科学研究奨励費の対象となり、研究を進め、同年6月に特許権を取得。同年11月、電気学会主催の発表会が開かれ、無線による映像の送受信を実演した。この時点の解像度は1,600画素。

 昭和12年、浜松工業学校の教授の籍を残したままNHKに出向。出向に当たっては高柳の助手10人も研究員としてNHK入りしたほか、世田谷区喜多見の技術研究所に新たな研究室が建設されるなど高待遇で迎えられた。研究室では東京オリンピックのテレビ放送を目指してテレビ受像機の研究を本格的に開始したが翌昭和13年日中戦争が激化するなどで東京オリンピックは中止。テレビの研究も中断させられレーダーや奮(ふん)龍(りゅう)〈大日本帝国海軍が開発していた地対空ミサイル〉の誘導装置など、軍事関連の研究をすることになる。

 終戦後、NHKに戻ってテレビの研究を再開するがGHQの指令によりテレビの研究を禁止させられ、公職追放となる。その後、昭和21年に日本ビクターに高柳の弟子と共に入社。自身が中心となり、NHK、シャープ、東芝と共同でテレビ放送技術とテレビ受像機を完成させた。