ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第427話 孝明天皇崩御の謎

序文・最期の在京天皇のタブー

                               堀口尚次

 

 明治天皇の父である孝明天皇は、慶応2年12月、風邪気味であったが宮中で執り行われた神事に医師たちが止めるのを押して参加し翌1月に発熱する。診察した結果、天皇痘瘡(とうそう)〈天然痘〉に罹患(りかん)している可能性が浮上する。武家伝奏などへ天皇が痘瘡に罹ったことを正式に発表した。これ以後、天皇の拝診資格を持つ医師総勢15人により、24時間交代制での治療が始まった。

 「御容態書」における発症以降の天皇の病状は、一般的な痘瘡患者が回復に向かってたどるプロセスどおりに進行していることを示す「御順症」とされていた。しかし、崩御の事実は秘され、実際には命日となった1月30日にも、「益御機嫌能被成為候〈ますますご機嫌がよくなられました〉」という内容の「御容態書」が提出されている。天皇崩御が公にされたのは2月3日になってからのことだった。

 その後、明治維新を経て、皇室に関する疑惑やスキャンダルの公言はタブーとなり、学術的に孝明天皇の死因を論ずることも長く封印された。

 昭和15年、日本医師学会関西支部大会の席上において、京都の産婦人科医で医史学者の佐伯理一郎が天皇が痘瘡に罹患した機会を捉え、岩倉具視がその妹の女官・堀河紀子を操り天皇に毒を盛った」という旨の論説を発表している。

 第二次大戦後に、皇国史観を背景とした言論統制が消滅すると、孝明天皇変死説が論壇に出てくるようになった。最初に学問的に暗殺説を論じたのは、「孝明天皇は病死か毒殺か」の論文を発表した歴史学者・禰津(ねづ)正志である。禰津は、医師達が発表した「御容態書」が示すごとく天皇が順調に回復の道をたどっていたところが、一転急変して苦悶の果てに崩御したことを鑑み、その最期の病状からヒ素による毒殺の可能性を推定。また犯人も戦前の佐伯説と同様に、岩倉首謀・堀河実行説を唱えた。

 孝明天皇暗殺説を唱える者の一部は、さらに睦仁(むつひと)親王〈即位前の明治天皇〉暗殺説を唱えることがある。即ち明治天皇は睦仁親王に成り代わって即位した別人〈大室寅之祐〉であるという説である〈天皇すり替え説〉。当初この論を主張した者の説では大室は南朝の末裔であるとされ、いくつかの根拠が挙げられたが、陰謀論の域を出ていない。