ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1258話 笠覆寺と玉照姫

序文・笠寺観音

                               堀口尚次

 

 寺伝によれば、天平5年、僧・善光〈または禅光〉が呼続(よびつぎ)の浜辺に打ち上げられた、夜な夜な不思議な光を放つ霊木を以て十一面観音像を彫り、現在の名古屋市南区粕畠(かすばた)町にその像を祀る天林山小松寺を建立したのが始まりであるという。

 その後約200年を経て堂宇は朽ち、観音像は雨露にさらされるがままになっていた。ある時、旅の途中で通りかかった藤原兼平〈藤原基経の子〉が、雨の日にこの観音像を笠で覆った鳴海家長・太郎成高の家に仕える娘を見初め、都へ連れ帰り玉照姫と名付け妻とした。延長8年この縁で兼平と姫により現在の場所に観音像を祀る寺が建立され、笠で覆う寺、即ち笠覆(りゅうふく)寺と名付けられたという。一般には笠寺(かさでら)観音の通称で知られる。現在の名古屋市南区笠寺の通称・地名等もこの寺院名に由来する。

 笠覆寺の向かいにある西方院の「粕畠観音御縁起」によると『現在、粕畑貝塚のある場所は「観音塚」「元観音」と呼ばれ、享保元年加藤又兵衛勝貞氏が寄進した「南無十一面観世音大菩薩」と刻まれた碑と、千手観音さまの座像が安置してあります。笠覆寺笠寺観音〉の縁起によれば、奈良時代天平年間にこの地に小松寺が建てられ、笠覆寺発祥の地とあります。この近くに住む信心深い住民がお堂を建て、立派な観音像を祀られました。近隣信者の方々は「粕畠かんのんさん」とお慕い申して日々ご参詣され、お線香の絶えることがありませんでした。平成四年六月に、お堂が取り壊しとなり、縁ありまして西方院の明王堂に入られました。厄難を除き、所願を成就してくださる観音さまとして、皆様にご参詣されています。』とある。

以下は「愛知県の公式観光ガイド」より抜粋

笠覆寺というのは「笠で覆う寺」の意。その昔、ある女性が観音像にお祈りを続けていました。ある日、雨ざらしでびしょ濡れになっていた観音様を見た女性は、思わず自分がかぶっていた笠をかぶせます。ちょうどそこに男性が通りかかりました。彼こそが京からやってきた青年貴族・藤原兼平公。見初められた女性は京に召され、兼平公と結ばれて「玉照姫」と呼ばれるようになりました。のちに夫婦は出会いのきっかけとなった観音様に感謝してお堂を建て、笠をかぶせた観音さまをお祀りしました。これが笠で覆う寺、すなわち笠覆寺という名がついたという伝説があります。』