ホリショウのあれこれ文筆庫

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第29話 長崎原爆戦災孤児の境遇

序文・原爆戦災孤児のドキュメンタリー番組を視聴した。

孤児院の寮母先生の生き様に感動した。

                               堀口尚次

 

 第26話で、タイガーマスク伊達直人)が戦災孤児であったことは記したが、長崎の原子爆弾投下による戦災孤児のドキュメンタリー番組を民放で視聴した。

広島の原爆や各都市の大空襲なんかでも、戦災孤児が多くいた事は想像に難くない。

 孤児らは焼け野原の街で途方に暮れ、着の身着のままで徘徊していたのだ。盗みをはたらく者や、素行に問題のあることもあり、GHQの指導のもと行政は街はずれに「孤児院・向陽寮」を造り孤児らを養育した。

 そこで、寮母となった女性は献身的に孤児らと接し、次第に信頼関係を構築して行った。孤児らの体験談では、街で孤児らに対する誹謗中傷があったと言う。寮母は、一人一人に人間として接し、孤児らの境遇をけして惨めなものとしないように働き掛けた。それでも、孤児らの養育は簡単ではなく挫折や葛藤の連続であったことも否めない。ある日、施設内の共同浴場に一緒に入浴した寮母は、手術で切除した片方の乳房を隠すことなく見せたという。私は、なにもかも曝け出して、孤児らと接する寮母の姿勢に感涙した。

 中学校を卒業するぐらいの年齢になると、孤児らは就職し院を出て行った。

その就職の斡旋に於いても、寮母はまた、骨を折って世話をしたのだ。

 あまりにも孤児らに肩入れしすぎる、という判断が行政からあり、寮母は離職に追い込まれてしまう。

 番組では、卒業して大人になった(80歳前後)元孤児らの数人が集まって、昔の事を語る場面があったが、皆が寮母先生への報恩を語った。元孤児らは、自分が孤児であったことを伏せて生きた来たという。番組の最後では、皆で寮母先生のお墓へ参拝する姿が映し出された。

 私なりの疑問だが、昔は親兄弟・親戚も多く、親戚も頼ることが出来ない孤児という境遇は、そんなに多かったのだろうか。番組で取り上げられた孤児院では30人程度の孤児がいたが、原子爆弾による衝撃は、それほど多くの人間を壊滅させているのだ。広島原爆での孤児、東京や各大都市での大空襲での孤児など日本全国の都市に戦災孤児がいたのだろう。そして、いわれのない差別を受け、貧困と飢餓の苦痛に苛まされたことであったろう。

 野坂昭如原作の「火垂るの墓」も戦災孤児の話しだったが、やはり親戚は無いわけではないが、戦後の混乱期の中、どの家庭も生活に余裕がなかったのだろう。戦争は、生活の余裕だけでなく、人間の心の余裕も奪い去ってしまったのだと思う。心の余裕を持ち続けた養母先生を偲び、その高徳を称えたい。

※写真は、向陽寮に連れて来られる孤児。手前の女性が寮母。

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