ホリショウのあれこれ文筆庫

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第463話 B29より大きい幻の九二式重爆撃機

序文・木製プロペラが岐阜の民家で見つかった

                               堀口尚次

 

 九二式重爆撃機は、1930年代の大日本帝国陸軍の試作重爆撃機。キ番号〈試作名称〉はキ20。呼称・略称は九二式重爆九二重爆など。

 本機の設計元はドイツのユンカース社が開発したユンカースG.38大型旅客機であり、キ20としての製造はそのライセンス生産権を買い取った三菱重工業により生産された。設計主務者は仲田信四郎技師。

 当時としては世界的にも破格の大型機であり、翼幅・翼面積は後に開発されるアメリカ陸軍航空軍-29よりも大きく、-2輸送機が登場するまでは日本陸海軍機中最大の機体であったため、内外において俗に九二式超重爆撃機超重爆撃機超重爆とも称されていた。しかしながら製造中に時代遅れの機体になってしまい、生産は6機で打ち切られ実戦参加することなく退役した

 1920年代末、帝国陸軍では将来フィリピンに侵攻する可能性を考慮し、その際に障害となるコレヒドール島のアメリカ軍基地を台湾から長距離爆撃できる機体を発案した。また仮想敵国であったソ連赤軍が大型爆撃機ツポレフ TB-4を開発中との情報もあり、それに対抗できる同等性能の機体が欲されていた。そのような経緯により、三菱に大型爆撃機の開発が命じられることとなった。

 当時の日本の技術水準では大搭載量と長距離飛行とを同時に実現できる4発大型機の自力開発は無理であったため、その頃世界最大の単葉陸上機だったドイツのユンカース G.38大型旅客機〈正確には同型のユンカース K.51重爆撃機〉の製造ライセンスを1928年に三菱が購入し、それを参考にして機体開発を行うこととした。設計・製作にあたってはユンカースの技術者を日本に招聘し、陸軍の指導監督の下で極秘裏に開発が進められた。なお1号機・2号機の主要部品はユンカースから購入・輸入したが、3号機以降は同社からの部品購入は最小限とし主に国産部品を使用した。

 対米戦用に秘匿され実戦には投入されず旧式化した本機であったが、その巨大な機影は見る者を圧倒するものがあり、陸軍では宣伝目的に本機を積極的に利用した。昭和15年1月の観兵式には3機が示威飛行を行い、また雑誌などでも紹介されるなど広く一般に知られるようになった。その後も航空国防博覧会等に展示されるなどし、1機は所沢の航空記念館に終戦時まで保管されていた。