ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1139話 松永久秀は奈良の大仏を焼き払ったのか

序文・不慮の失火説が有力

                               堀口尚次

 

 松永久秀〈永正5年- 天正5年〉は、戦国時代・安土桃山時代の武将、大和国戦国大名である。官位を合わせた松永弾正の名で知られる。

 初めは三好長慶(ながよし)〈摂津国守護代〉に仕えたが、やがて三好政権内で実力をつけ、室町幕府との折衝などで活躍した。久秀は長慶の配下であると同時に交渉の一環として室町幕府第13代将軍・足利義輝の傍で活動することも多く、その立場は非常に複雑なものであった。また、長慶の長男・三好義興と共に政治活動に従事し、同時に同じ官位を授けられるなど主君の嫡男と同格の扱いを受けるほどの地位を得ていた。

 長慶の死後は三好三人衆と、時には協力し、時には争うなど離合集散を繰り返し、畿内の混乱する情勢の中心人物の一人となった。織田信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛してくると、一度は降伏してその家臣となる。その後、信長に反逆して敗れ、信貴山城で切腹もしくは焼死により自害した。

 奈良の大仏を「戦国時代に仏頭は松永久秀の兵火によって焼き落とされ」と紹介されたり、織田信長徳川家康松永久秀を紹介する時に、三悪事の1つとして東大寺大仏を焼討したと紹介したので、久秀が焼討したと現在でも語られている。しかし『大和軍記』には「〈三好軍の〉思いがけず鉄砲の火薬に火が移り、」と記載されていたり、『足利李世記』には「三好軍の小屋は大仏殿の周囲に薦(こも)を張って建っていた。

誤って火が燃えつき、」と記載されている事から、『松永久秀の真実』では「松永方が放火して焼けたのではなく、罪があるとしても、過失により、大火を招いたものだろう。ましてや久秀が指示して大仏殿を焼いたということはあり得ない」としていたり、『筒井順慶の生涯』によると「大仏殿は久秀が意図的に焼いたものではなく、戦のさなかに三好方で起きた不慮の事故によって焼けてしまった」としていたり、今谷明によると「大仏炎上は久秀の仕業とされているが、実際は三好方の失火であった。信長に2回も謀反した悪辣(あくらつ)ぶりが後世の付会(ふかい)を呼んで、すべての久秀の罪業に押付けられたのである」とする。これより直ちに「松永久秀の放火説」がなかったとは言えないが、最近の研究によると「戦の最中の不慮の失火説」が有力である。