序文・試し斬り役
堀口尚次
山田浅右衛門は、江戸時代に御様御用〈御試御用〉という刀剣の試し斬り役を務めていた山田家の当主代々の名乗り。ただし、歴代当主には「朝右衛門」を名乗った人物もいる。死刑執行人も兼ね、江戸時代から首切り浅右衛門、人斬り浅右衛門とも呼ばれていた。
御様御用の役目自体は、腰物奉行の支配下にあったれっきとした幕府の役目であったが、山田浅右衛門家は旗本や御家人ではない、浪人の立場であった。これは、死の穢れを伴う役目のためにこうした措置がとられたと解釈されがちである。しかし、5代吉睦は、腰物奉行臼井藤右衛門に聞いた話として次のような記録を残している。
将軍徳川吉宗の前で山田浅右衛門吉時が試し斬りをし、吉宗がその刀を手にとって確かめるということがあったという。この時、吉時が幕臣になることを申し出ていれば、取り立てられたであろう。しかしその機会を失ったために、浪人の立場のままとなった。これが前例となり、浪人である山田浅右衛門家が御様御用を務める慣習になってしまった。
また、御様御用には技術が必要であるため、世襲の家系では水準を満たさない者が現れる可能性もあり、技術のある者がいる間だけの臨時雇いとして、山田浅右衛門家を浪人に留めたという説もある。山田浅右衛門家は浪人の身であり、幕府からの決まった知行を受け取ることはなかった。しかし様々な収入源があり、たいへん裕福であった。一説には3万石から4万石の大名に匹敵するほどであったという。公儀御様御用の際には、幕府から金銀を拝領していた。
最大の収入源は「死体」であった。処刑された罪人の死体は、山田浅右衛門家が拝領することを許された。これら死体は、主に刀の試し斬りとして用いられた。当時の日本では、刀の切れ味を試すには人間で試すのが一番であるという常識があった。戦国時代はともかく平和な江戸時代においては、江戸市中においての試し斬りの手段としては、浅右衛門に依頼するのが唯一の手段であった。罪人の数が、試し斬りの依頼のあった刀の本数にはとうてい追いつかないため、斬った死体を何度も縫い直して、1人の死体で何振りもの刀の試し斬りを行った。浅右衛門自身による試し斬りに限らず、自ら試し斬りを行う武士に対して、死体を売却することもあった。
