ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1399話 化学技術の先駆者・宇都宮三郎

序文・セメント製造に成功

                               堀口尚次

 

 宇都宮三郎天保5年 -明治35年〉は幕末・明治初期の洋学者・軍学者化学工学者技術者である。別名に宇都宮鉱之進など。

 天保5年10月15日、御本丸番を務めていた尾張藩士の神谷半右衛門義重の三男として、名古屋城下町の車道〈現・愛知県名古屋市中区新栄3丁目〉に生まれた。幼名は神谷銀次郎重行。神谷家は三河国碧海郡に源を持ち、父の神谷半右衛門義重は始祖の神谷正三から数えて7代目に当たる。慶長19年の大坂冬の陣、慶長20年の大坂夏の陣の際、神谷正三は徳川家康に付き従っている。

 嘉永6年の黒船来航後には江戸出張を命ぜられ、浜御殿隣りの尾張藩邸内に砲台を築き、着発弾の開発に当たった。安政4年には尾張藩から帰国を命じられるが従わず、尾張藩を脱藩した。脱藩の際には通称を宇都宮鉱之進、実名を宇都宮義綱に改めた。安政5年には江戸幕府の大砲製造を指導した。万延2年、勝海舟の奨めで幕府の蕃書調所〈後に洋書調所〉に勤め、講武所でも大砲・銃・火薬の製造を指導した。

 明治維新後には宇都宮三郎という名前を用いている。明治5年には工部省の技師となった。鉄道や港湾の建設に必要なセメントの国産化に取り組み、官営深川セメント製造所を建設、国産初のポルトランドセメントの製造に成功した明治15年6月、工部大技長となる。この間に2度の欧米出張を行った。明治17年6月、肺病を理由に工部大技長を辞官し、以後は主に民間工業の育成に尽した。工部卿伊藤博文に辞表を出したとき、「そのまま静養したら数ヶ月過ぎれば恩給が出る」と言われたが、「それは大変だ。すぐに辞めさせてもらいたい」と答えたという。

 セメントの他、炭酸ソーダ、耐火煉瓦の国産化などに当たり、日本での化学工業界の先駆者として貢献した

 明治35年7月23日に死去した。先祖ゆかりの地である愛知県碧海郡畝部村〈現・豊田市〉の幸福寺に、自ら考案した腐敗防止装置付きの棺に納められて葬られた。

 名古屋市新栄3丁目の名古屋市立中央高等学校敷地内には「宇都宮三郎出生地」の説明看板がある。

※筆者撮影