堀口尚次
林秀貞は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の家臣。通称は新五郎、壮年期以降は佐渡守の受領名を名乗る。父は林通安。弟に林通具、子に林通政と林一吉がいる。長年「通勝(みちかつ)」と伝えられてきたが、正しくは秀貞であり〈『言継卿記』等〉、松永久秀の家臣の林通勝と混同されたと考えられている。ただ、父親が通安、弟が通具と「通」を、子の林勝吉〈のちの林一吉〉、孫の林勝久が「勝」を通字としている事から、初めは通勝で後に主君・織田信秀の秀の字を与えられ、秀貞と改名した可能性も考えられる。
林氏は元々尾張国春日井郡沖村〈現在の愛知県北名古屋市沖村〉を本貫とする土豪であったが、秀貞は父・林通安と共に織田信秀に仕えて、政治や外交に手腕を発揮し、軍団のまとめ役〈統率〉として信秀の信頼を受け重臣となった。
幼少の織田信長に那古野城が与えられると、信長の二番家老となった平手政秀と共に一番家老として信長付きの家臣となり〈『信長公記』〉、天文15年に古渡城で行われた信長の元服においては介添え役を務めるなど、まさしく信長の後見役と言える存在であった。しかし、当時の織田家臣団の例に漏れず秀貞も信長の奇行には頭を痛めており、天文21年に織田信秀が死去し、天文22年に平手政秀が死去すると、秀貞は信長の弟である織田信勝〈信行〉の擁立を画策するようになる。弘治元年に清洲城主・織田信友が織田信光に殺害され、信長が清洲城を占拠すると、秀貞は那古野城の留守居役に任ぜられた。
天正8年8月、信長の命により秀貞は突如として安藤守就や丹羽氏勝と共に織田家を追放された。信長は秀貞の追放理由として、秀貞がかつて織田信勝を擁立して謀反を起こした事を挙げているが、それは24年も前の出来事であることからも余りに難癖じみており、その真相については不明な点が多い。『信長公記』では「仔細は先年信長公御迷惑の折節、野心を含み申すの故なり」とあり、信長がかつて信長包囲網で窮地に陥っている時に謀反を企て敵と通じたというのであるが、この記述はあまり信用できない。
一説には、秀貞が老齢で役に立つ事が少なくなったことから、実力主義を採用していた信長が秀貞の働きに不満を持ったためともいうが、そうであるならば秀貞を強制的に隠居させれば済む話であり、織田家中に動揺を招く追放処分とした理由は不明である。