ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1609話 兄・織田信長に殺された弟・信行

序文・織田一族の宿命

                               堀口尚次

 

 織田信行は、戦国時代の尾張の武将。同時代史料に見える諱は信行ではなく、信勝(のぶかつ)、達成(みちなり)、信成(のぶなり)である。父は織田弾正忠家織田信秀、母は土田御前織田信長の同母弟である

 信行は、父の信秀の生前から尾張国内に判物〈公的文書の一種〉を発給するなど一定の統治権を有した。信秀の死後は末森城主となって兄の信長と尾張の支配権を巡って争い、初期の信長の統治にとって大きな脅威となった。一時は信長に代わって弾正忠家の当主を名乗ったが、稲生の戦いで敗北し、その後、信長に謀殺された

 信行の人物像について詳細は伝わらないが、信秀の葬儀において、信長が奇矯な行動をとった一方で、信行は礼儀に則った振舞いをしたという逸話がよく知られている。また、白山を信仰していたとされ、鷹狩の名手であったという。

 天文21年3月、父・信秀が死去した。信秀の葬儀の際、兄・信長は仏前で抹香を投げつけるという不行跡を示したのに対し、勘十郎信行は「折目高なる肩衣・袴めし候て、あるべきごとくの御沙汰なり」と記されている通り、正装をして礼儀正しく振舞っており、対照的であった。この逸話はおおよそ事実であったと考えられている。

 信行がどのような人物であったかを伝える史料は乏しい。信行美濃国の白山社に仏像光背を寄進しており、その銘の写しが残っている。このことから、父・信秀が深く帰依していた白山信仰を、信行もまた受け継いでいたとされる。

 信行の人物像を示す逸話として、政秀寺の僧侶・沢彦宗恩が天文24年に残した言葉によれば、信行は百舌鳥(もず)を飼いならしており、百舌鳥を用いた珍しい鷹狩を好んだ。獲物を逃してしまうことは決してなく、非常に高い腕前を誇っていたという。

 信行の子の坊丸〈後の津田信澄〉は助命され、長じてからは信長の有力武将として活躍したが、本能寺の変に際して明智光秀の娘婿であったことも相まって謀反を疑われ、信長の三男・信孝に討たれた。ただし信澄の子の織田昌澄は生き延び、最終的に江戸幕府の旗本となった。

私見】百姓から身を立てた豊臣兄弟とは対照的に、尾張守護代筋の家柄に育った織田兄弟の仲たがいは、悲しき宿命とでもいえるのだろうか。