序文・桶狭間の戦い
堀口尚次
毛利良勝は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の家臣。通称は新介、後に新左衛門。
尾張国の出身というが、出自については不明。織田信長に馬廻として仕えた。小姓であったとする説もある。
永禄3年、桶狭間の戦いでは、最初に斬りかかって負傷した服部一忠〈小平太〉を助け、今川義元の首を取り名を上げた。
『信長公記』では、毛利新介のこの功名は「幼君〈毛利秀頼〉」を〈一族の〉毛利十郎が保護した冥加のおかげだと人々が噂したという話が書かれている。また、この際、指を噛み千切られた話があるが、これは『尾張志』や『太閤記』などにある逸話。
『信長公記』によれば、今川義元はこの予期せぬ緊急事態に輿を捨て、300騎の旗本・親衛隊で周りを固めながら急いでその場から騎馬で脱出、退却した。しかし、5度にわたる織田軍の攻撃で周囲の兵たちを少しずつ失い、ついには織田軍の馬廻に追いつかれた。小和田泰経〈歴史学者〉は桶狭間をこの追撃戦が行われた一帯の地名だとし、地形も谷や狭間ではなく深田や湿地が広がっており、さらに豪雨が降ったこともあって敗走ルートの現場では、ぬかるみに足を取られたところを織田軍に攻撃され殺される今川軍の兵も多かったとする。乱戦の中、今川義元は太刀を抜いて自ら奮戦し、一番槍をつけた服部一忠に反撃して膝を切り割ったが、毛利新介によって組み伏せられ、首を討ち取られて死亡した〈享年42〉。『水野勝成覚書』の伝聞によれば、今川義元は首を討たれる際、毛利の左指を噛み切ったという。
桶狭間以後は諱を良勝と名乗り、通称は新介から新左衛門に改めた。母衣衆が選抜されたときに黒母衣衆の一人に名を連ねた。
信長上洛後は、永禄12年に大河内城攻めに参加した。信長の側近として尺限廻番衆(さくきわまわりばんしゅう)に属した。主に吏僚として活躍し、判物や書状、副状に署名を多く残している。天正10年、甲州攻めでも信長に随行して4月の諏訪在陣で興福寺大乗院より贈品を受けている。同年6月の本能寺の変の際も信長に従って京に滞在しており、信長の嫡男で織田家当主の信忠を守って二条御新造に籠り、信忠と共に討死した。この際、子の岩丸も討ち死にしたという。
