序文・鹿の角の兜
堀口尚次
本多忠勝は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。本姓は藤原氏。通称は平八郎、官途は従五位下、中務大輔である。なお、忠勝は発給文書で「中務少輔」と併用している事例が多く、その併用の理由も不明で、ただ単に官途に対して無頓着だったと考えられる。後世、徳川三傑・徳川四天王・徳川十六神将として崇められた。
愛槍は「蜻蛉(とんぼ)切」。刃長43.8cmの笹穂型の大身槍。穂先に止まった蜻蛉が真っ二つになったという逸話からこの名が付いた「天下三名槍」の一つに数えられている名槍。柄の長さは当時通常の長槍は一丈半〈約4.5m〉だったのに対し、蜻蛉切は二丈余〈約6m〉だったという。晩年にはやはり体力の衰えが出てきたと見え、「槍は自分の力に合うものが一番」と言って槍の柄を三尺余〈約90cm〉ほど短く詰めたとされる。
兜は「鹿角脇立兜」。鹿の角をあしらった脇立は何枚もの和紙を貼り合わせて黒漆で塗り固めたものが夙(しゅく)〈賤民〉に知られている。このほかに、秀吉から拝領した伝佐藤忠信着用の兜も現存しており、前者は嫡男の忠政に、後者は次男の忠朝に譲ったという。鎧は当世具足「黒糸威胴丸具足」。自らが葬った敵を弔うため、肩から大数珠をさげるのが常であったといわれる。又、動きやすさを重視し軽装を好んだという。
忠勝は武田信玄や織田信長にもその武勇を認められ、「家康に過ぎたる者」とまで言われた武将である。有名な「家康に 過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」という狂歌は一言坂合戦〈元亀3年に遠江国二俣城をめぐり、武田信玄と徳川家康の間で行われた戦いで家康の退却戦〉の忠勝の働きの見事さを武田信玄が詠ったものとして知られている。寛永4年8月とされる細川忠興自筆書状によれば、信其という人物の日記に若き忠勝を「唐ノ頭ニ本田平八」と狂歌にして記されていたという。忠興は嫡男・忠利にその記述があるかを問い合わせている。武人としてほぼ同時代の武将からも慕われていたことがわかる。
辞世の歌「死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の君を思えば 」は有名だが、典拠となる史料は現在確認されていない。

