ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1524話 脱走した新選組元総長・山南啓助

序文・勤王

                               堀口尚次

 

 山南敬助天保7年- 元治2年〉は、江戸時代末期〈幕末〉の日本の武士・新選組隊士。近藤勇らとともに新選組を結成する。当初は副長、後に総長を務めた。屯所移転問題を巡り近藤や土方歳三と対立を深め、最終的に脱走したことで、新選組の隊規に違反したとして切腹とされているが、確たる文献や証明する歴史書等はなく、何故切腹にまで至ったか真相は謎である。名字の「山南」読みについては「やまなみ」「さんなん」が考えられている。一般には「やまなみ」が広く知られているが、本人の署名に「三南」「三男」としたものがあるため、「さんなん」の可能性も高いと考えられている。

 元治2年2月、山南は「江戸へ行く」と置き手紙を残して行方をくらませた。新選組の法度で脱走は切腹とされていた。近藤と土方は直ちに沖田を追っ手として差し向けた。沖田だけを派遣したのは、弟のように可愛がっていた彼ならば山南も抵抗しないだろうという、土方の思惑によるものといわれている。大津で沖田に追いつかれた山南はそこで捕縛され、新選組屯所に連れ戻された。

 脱走原因には諸説ある。西本願寺侍臣西村兼文によれば、山南を追い詰めたのは屯所移転問題だったという。新選組は隊士が増えて壬生村が手狭になったことから屯所を京都市内の西本願寺に移したが、これには西本願寺は勤王色が濃いうえに長州藩毛利家とも近い関係にあるという背景が介在した。近藤はあえてその西本願寺に屯所を移してこの地を抑え、将来禍根となりうる芽を摘んでしまおうと考えたのである。勤王の志が強い山南はこれに強く反対したが、近藤や土方は全く取り合わず、こののち山南新選組との決別を意識するようになったという。

 伊東や、試衛館以来の親交があった永倉からは再度の脱走を勧められるが、山南は死の覚悟を決めていた。なお、山南が馴染みにしていた島原の遊女・明里が永倉の配慮により、死の間際にある山南のもとに駆けつけて今生の別れを告げたと伝わるが、その永倉本人の手記『新選組顛末記』や『浪士文久報国記事』には明里についての記述が一切なく、現在では子母沢寛による創作の可能性が高いと考えられている。元治2年2月切腹介錯山南の希望により沖田がこれを務めた。享年30。その最期を近藤は「浅野内匠頭でも、こう見事にはあい果てまい」と賞賛したという。墓は京都の壬生屯所近くの光縁寺にある。