序文・人質か養子か
堀口尚次
宮部継潤は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。近江国宮部城城主、のち但馬国豊岡城城主、因幡国鳥取城城主。宮部中務卿法印、中務卿法印。
土肥真舜の子として生まれる。天文5年、比叡山に登って行栄坊という僧に師事し、剃髪して善祥坊と称した。その後、比叡山を下りて近江国浅井郡宮部村の湯次神社の社僧、宮部清潤のもとに身を寄せて継潤と称した。その名前の類似性から小和田哲男〈歴史学者〉は継潤は清潤の養子となったものとみており、また、比叡山時代の継潤〈善祥坊〉はいわゆる荒法師〈僧兵〉であったとしている。
その後、近江の戦国大名・浅井長政に仕えた。主君・長政に従って織田信長との戦いで活躍、横山城の城将であった羽柴秀吉と対峙したが、元亀2年10月、秀吉の調略に応じてその与力となった〈『浅井三代記』〉。寝返りの証として浅井側の国友城を攻めた際、銃撃を受け負傷している。『信長公記』にはこれより少し早い8~9月に、信長によって宮部村の要害を守るよう命じられたとある。
居城である宮部城は小谷城攻めには欠かせない重要拠点だったこともあり、天正元年8月の小谷城落城まで多く勲功を上げている。この時期に秀吉の甥〈後の豊臣秀次〉を養子としているが、事実上の人質であったようで、浅井氏滅亡後は秀吉の下に返還されている、と考えられてきた。
ところが、堀越祐一〈歴史学者〉が天正9年5月に家臣に知行を与えている「宮部次兵衛尉吉継」を後の秀次に比定する説を唱えた。黒田基樹〈歴史学者〉も秀吉と継潤から一字ずつ取った「吉継」の名乗りや後に継潤が因幡一国を任されている特殊な扱いから、堀越説を支持して、吉継=秀次は継潤の養嗣子として元服を迎えて天正9年に至ったとする。黒田は清須会議の結果として吉継は宮部家から離れて三好康長の養子になったとしている。
天正元年8月末に浅井氏が滅亡すると、継潤は小谷城主となった秀吉より3千石もの所領を与えられた。この破格の待遇から、秀吉が継潤の寝返りを高く評価していたことが窺われる。
