ホリショウのあれこれ文筆庫

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第27話 廃仏毀釈と三河大浜騒動

序文・「廃仏毀釈」は明治政府の政策ではなく、神仏分離令

神道国教化政策から起きた「現象」にすぎなかった。

                              堀口尚次

 

 明治維新時に三河鷲塚(現・愛知県碧南市)で、廃仏毀釈に端を発した、浄土真宗・僧侶や門徒と、当時鷲塚を所領していた菊間藩(大浜出張所)の役人との間で起こった暴動事件である。鷲塚騒動・菊間藩事件ともいわれる。

 明治政府が明治元年に発した太政官布告神仏分離令」や「大教宣布」などの法令は、仏教排斥を意図したものではなかったが、実際には仏教が弾圧され、原因として仏像・仏具の廃棄を、神宮寺の社僧に抑圧されていた神職が暴力的に行い、檀家制度のもとで、寺院に搾取されていると感じる民衆がこれに加わり、各地に廃仏毀釈運動が起きてしまった。

 菊間藩・大浜出張所に赴任した服部純・少参事は、神道国学者平田篤胤の門下であったことから、神道を強く推進し、その結果として仏教の排斥(縮小)も同時並行で進めたため、浄土真宗が根強い西三河では、僧侶達の反発をかうことになる。浄土真宗の僧侶達は「三河護法会」を結成し、総監に専修坊の星川法沢、幹事に蓮泉寺の石川台嶺らを筆頭に、菊間藩・大浜出張所への談判を決行した。岡崎の暮戸に集まった僧侶30名は、血判状を携えて大浜を目指すが、途中で門徒や民衆の同行者が増え(一説には千人を超えていたとも言われている)、幹事・石川台嶺が、門徒・民衆に対して暴挙妄動のないように戒めた。

 大浜出張所に着く前に、鷲塚の庄屋宅に菊間藩の役人5名が来て、話し合いとなったが決着が付かず、近隣の寺で待機していた門徒・民衆が暴徒化する気配になってきた。不穏な空気を察した役人5人は抜刀して庄屋を退去したが、逃げ遅れた役人・藤岡薫が暴徒化した民衆の竹槍で刺殺されてしまう。大浜出張所に逃げ帰った役人達は、近隣の藩(西尾藩刈谷藩岡崎藩など)に応援要請をし、騒ぎは一日で沈静化した。

 暴動の責任者として、幹事・石川台嶺は西尾藩牢獄にて斬首刑、総監・星川法沢以下血判した僧侶30名が懲役刑、役人を刺殺した榊原喜代七が絞首刑、その他40名弱に有罪刑、1000名以上が口上書・始末書提出となった。

 事件後に菊間藩は、大浜出張所の服部少参事の強引なまでの神道国教化の政策推進を反省し、廃寺や寺院の規模縮小などの方針を改めた。ただし、この後の廃藩置県で誕生した額田県は、明治政府の方針によって寺院の廃・合併は強硬に実施された。

 私は、西三河の地に点在する大浜騒動に関する史跡を尋ね、仏教の護法に散った僧侶の鎮魂と、結果として騒動の犠牲者となってしまった役人・藤岡薫と、刺殺者となってしまった榊原喜代七の墓に参り合掌した。

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