ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1165話 女城主・井伊直虎

序文・井伊直政の養母

                               堀口尚次

 

 井伊直虎は、戦国時代から安土桃山時代にかけての遠江伊井谷(いいのや)の領主。「井伊直虎」という名の人物についての同時代史料は一通の書状しか存在しないが、通説では江戸時代中期の享保15年に書かれた井伊氏の家伝『井伊家伝記』において、女性ながら井伊家当主になったと記載された井伊直盛の娘・次郎法師と同一人物とされる次郎法師井伊直親と婚約したといわれるが生涯未婚で、直親の遺児で後の徳川四天王井伊直政の養母と伝わる。なお通説は上記の通りだが、直虎の出自や、直虎次郎法師が同一人物か否かについては歴史家・研究者によって意見が分かれている。

 次郎法師遠江井伊谷城主〈国人〉の井伊直盛の娘として誕生。母は新野親矩(にいのちかのり)の妹・祐椿尼(ゆうちんに)。幼名・俗名は不明。父・直盛に男子がおらず、直盛の従兄弟にあたる井伊直親を婿養子に迎える予定であった。天文13年、今川氏与力の小野政直の讒言により、直親の父・井伊直満が弟の直義と共に今川義元への謀反の疑いをかけられて自害させられ、直親も井伊家の領地から脱出して武田領の信濃に逃亡した。井伊家では直親の命を守るため、所在も生死も秘密となっていた。許嫁(いいなずけ)であった直虎は龍泰寺〈のちの龍潭寺(りょうたんじ)〉で出家し、次郎法師〈次郎と法師は井伊氏の二つの惣領名を繋ぎ合わせたもの〉を名乗った。直親は弘治元年に復帰して直盛の養子となるが、一族の奥山朝利の娘・おひよを正室に迎えたため、直虎は婚期を逸することになったとされる。

 永禄3年の桶狭間の戦いにおいて父・直盛が戦死。養嗣子としてその跡を継いだ直親は、永禄5年に小野道好〈政直の子〉の讒言によって今川氏真に殺された。直虎ら一族に累が及びかけたところ、母・祐椿尼の兄で伯父にあたる新野親矩の擁護により救われた。永禄6年、曾祖父の井伊直平今川氏真の命令で天野氏の犬居城めの最中に急死。永禄7年には井伊氏は今川氏に従い、引間城を攻めて新野親矩重臣中野直由らが討死し、家中を支えていた者たちも失った。井伊家の菩提寺である龍潭寺住職の南渓瑞聞により、直親の子・虎松〈のちの井伊直政〉は鳳来寺に移された。永禄8年、『井伊家伝記』に「次郎法師は女こそあれ井伊家惣領に生候間」とあるように次郎法師は井伊家の当主となった。次郎法師井伊直虎を同一人物とする説に従えば、このとき還俗して「次郎直虎」と名を変えたことになる。