ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1453話 武田信玄の薄幸な娘・黄梅院

序文・政略結婚の陰で

                               堀口尚次

 

 黄梅院〈天文12年 - 永禄12年〉は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。武田信玄正室三条の方の長女。北条氏政正室武田義信は同母兄、武田勝頼は異母弟

 甲斐国の生まれ。天文20年8月頃より、武田氏後北条氏今川氏甲相駿三国同盟のために、武田氏と後北条氏との間で婚姻交渉が進められ、北条氏康の嫡男・西堂丸に嫁ぐことになった。ところが、元服して氏親と名乗った西堂丸は天文21年3月に16歳の若さで急死してしまう。このため、武田氏と後北条氏の間の婚約は一旦白紙になってしまい、氏康は信玄に対して新しく後継者に決まった次男の松千代丸〈後の氏政〉との婚約を申し入れることになった。信玄もこの要望を受け入れて、天文22年正月、氏康と信玄との間で婚約のやり直しに関する起請文を交わされている。松千代丸は天文23年の正月頃に元服して氏政と名乗り、婚姻の環境が整うことになった。

 天文23年12月、氏政の元に嫁ぐことになり、その輿入れ行列は、1万人もの供の者が付き従い、大変豪華であったと伝えられている。また、信玄は彼女のために、弘治3年には安産の神である「富士御室浅間神社」に安産祈願をしており、子煩悩であったことが覗える。弘治元年に12歳の若さで新九郎〈夭折〉、弘治3年末頃に芳桂院〈千葉邦胤室〉、永禄5年に、嫡男・氏直、永禄9年竜寿院を産むなど夫婦仲は良好であった。

 しかし、永禄11年、父の信玄の駿河侵攻により三国同盟は破綻する兄・義信はこの過程で信玄に廃嫡される。信玄の駿河侵攻に激怒した氏康は黄梅院を甲斐に送り返した。その際、氏政からは堪忍分として16貫文余を与えられている。夫・氏政と離縁し、しばらくは鬱々とした日々を送っていたと思われるが、甲府の大泉寺住職の安之玄穏を導師に、出家したとも言われる。そして永禄12年6月17日、27歳で死去した。信玄は薄幸(はっこう)な長女のために、巨摩郡竜地〈甲斐市龍地〉に菩提寺黄梅院を建立し葬り、墓碑が現存している。それから信玄は、元亀元年の12月20日に、妻の三条の方と娘の黄梅院両方の回向を行い、同年12月1日付で大泉寺に黄梅院領として南湖郷を寄進する判物を発給している。夫の氏政は武田氏と再び同盟した後の、元亀2年12月27日に、早雲寺の塔頭に同じく黄梅院を建立し、彼女の分骨を埋葬して手篤く弔った。