ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1396話 尼御台・寿桂尼

序文・今川義元の母

                               堀口尚次

 

 寿桂尼(じゅけいに)は、戦国時代の女性。駿河国戦国大名今川氏親正室藤原北家、勧修寺流の中御門家〈公家〉の出自で、父は権大納言中御門宣胤。弟に中御門宣秀、妹は山科言綱の正室・黒木の方。子に今川氏輝今川義元、瑞渓院〈北条氏康室〉など。名は不詳。夫・氏親の死後、剃髪して翠光院寿桂〈後に長膳院〉と号し、大方殿と称された。氏親、氏輝、義元、氏真の4代にわたって今川氏の政務を補佐し、「尼御台(あまみだい)」と呼ばれた

 氏親に嫁いだ年は、永正5年とされてきたが、永正2年とする説も出されている。最初に吉良義堯室〈徳蔵院〉を生んだ。後に、永正10年に長男の氏輝、次男の彦五郎、永正17年には五男の義元を出産する。

 大永6年6月、氏親が病死して氏輝が家督を継いだとき、氏輝はまだ14歳という若年であり、氏輝が16歳になるまでの2年間は、寿桂尼は自身の「歸(とつぐ)」の印判を用いて公的文書を発給し、今川氏の国務を取り仕切った。この印判は寿桂尼が氏親と結婚する際に、中御門宣胤寿桂尼に与えたとされている。このため、彼女は「尼御台」と呼ばれている。寿桂尼の発給文書は25通が確認されており、そのうちの13通が氏輝の代に出されたものである。また、寿桂尼は甲斐の大名武田晴信とその正室で三条家〈公家〉の出自である三条の方の縁談を斡旋したという説もある。

 永禄3年5月、義元桶狭間の戦い織田信長に敗れて戦死し、孫の氏真が当主となった後も政治に関わっている。永禄11年3月14日、寿桂尼は今川氏没落の最中、今川館にて死去した。没年は婚姻の年齢から推測すると、80歳代中ごろと思われる。「死しても今川の守護たらん」という遺命により、今川館の鬼門である東北の方角にあたる自らが開基した龍雲寺に埋葬された。戒名は「龍雲寺殿峰林寿桂大禅定尼」。

 寿桂尼の死後、今川氏と武田氏の外交関係は手切となり、同年12月には武田氏による今川領国への侵攻が開始された〈駿河侵攻〉。氏真は駿河を捨て遠江に落ち延びるも、翌年に徳川家康に降伏し、戦国大名としての今川氏は滅びた。