序文・父も信長に殺された
堀口尚次
津田信澄は、安土桃山時代の武将。織田氏の連枝衆〈一門衆〉であるが、姓は津田を称し、諱は信重といった。通称を七兵衛。近江大溝城主で、摂津大坂城代。
尾張の戦国大名・織田信秀の三男・織田信勝〈信行〉の嫡男〈織田信長の甥〉として生まれる。享年は諸説あるので生年は不明だが、織田信長の嫡男である従兄弟の織田信忠とほぼ同年代と考えられている。
弘治2年に父・信勝は謀反の企てを起こして敗北し、永禄元年に父は伯父〈信勝の兄〉・信長によって暗殺された。しかしその子供達は助命され、信長の命令により柴田勝家の許で養育された。
『寛政重修諸家譜』等で、永禄7年正月に元服して津田七兵衛信澄を称して津田氏を名乗ったと記されている。元亀2年、佐和山城を引き渡して織田家に降った浅井氏旧臣、磯野員昌の養嗣子となった。磯野姓を名乗っていたかどうかは不明。天正2年2月3日に美濃岐阜城で開かれた信長主催の茶会に御通衆の「御坊様」として出席し、3月27日に信長が東大寺正倉院の蘭奢待(らんじゃたい)を切り取った際にも重御奉行の「津田坊」とまだ童名で呼ばれているので、養子になるという約束だけで正式な縁組はまだ行われていなかった可能性はある。
織田家では、2度も背いた信長の弟の遺児であったという境遇はほとんど窺(うかが)えず、その待遇は厚かった。一門衆の序列は第5位であり、信長の嫡子である信忠、信雄、信長の弟の信包、信長の庶子の信孝に次ぐ立場で、信澄の後ろに続くのは信長の弟の長益〈有楽斎〉、長利であって、破格の待遇であった。
舅の光秀が京都の本能寺、妙覚寺にいた信長、信忠を襲撃した本能寺の変が起こった。四国遠征軍は翌3日が淡路渡海の予定であったが、急遽中止される。信澄が光秀の娘婿であった事が災いし、市中には謀反は信澄と光秀の共謀であるという事実とは異なる噂が流れており、疑心暗鬼に囚われた信孝と長秀は、5日、信澄を襲撃して大坂城千貫櫓を攻撃した。信澄は防戦したが、丹羽家家臣・上田重安によって討ち取られた。謀反人の汚名を着せられたまま、信孝の命令で堺の町外れに梟(さら)された。謀反に荷担したという噂が当時の市中に流れていたわけであるが、信長の厚遇に応えて信澄は忠義を尽くしており、謀反に荷担した様子はなく、光秀に助力しようとした素振りも窺えない。
