ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1445話 信長に一番槍を付けた安田作兵衛

序文・明智光秀の配下

                               堀口尚次

 

 安田国継は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。通称は作兵衛。講談では安田作兵衛の名で知られ、明智三羽烏の一人とされている。

 天正10年に光秀が主君・織田信長に対して起こした本能寺の変では、その先鋒となり出陣。光秀は沓掛宿で小休憩しているとき、国継を呼び出して「味方勢から本能寺に注進に走る者があるかもしれない。そのような卑しき者を見つけたら打ち捨てにせよ」と先遣を命じた。国継は急ぎ先駆けした洛中への入り口である丹波口に差し掛かった頃、東寺のあたりで瓜作りをしていた農民がすでに畑にでていた。農民たちは殺気だった完全武装の騎馬武者を見つけて驚き、方々へ逃げ散った。これをみた国継はもしやと思い、彼らを追い回して、20~30人を切り捨てたという。 『太平記英勇伝』によると明智光秀は「毛利攻めをしている羽柴秀吉の援軍として、中国地方に向かう」と嘘の号令をかけて本国・丹波国亀山城から出陣し、京の桂川の川辺で休憩している時に、安田作兵衛国継に「吾が敵は本能寺にあり」と言って回らせた。この時、兵士は、初めて明智光秀の逆心を知った。 『翁草』によると「本能寺にて、信長公ご生害の時、堀重門より御座の間の大庭へ乱入候は明智が家士箕浦大蔵丞、古川九兵衛、安田作兵衛なり、信長公は白き単衣を召し、初めは弓にて防ぎ玉ひしが、弦切れたる故、槍を召さるに、地紅の帷子着たる年二十七、八計りの女中、十文字の槍の鞘をはづし持ち来る、夫〈これ〉をお取り有りて広庭へ飛び降り給ひ、三人の者と槍にて暫く追い合ひ、そこを引き取り、座敷へ入らせ給ふに、未だ座敷に燭台消え残り、その燈の光に信長公の影、障子に移りけるを、安田作兵衛穂長の槍にて、障子越しに突く、その槍信長公の右の脇腹を刺して深疵なれば、叶はせられず、寝殿に入りて自害し玉ふ」とある。 『美濃国諸家系譜』では「天正10年壬午6月2日、京都本能寺に於いて、信長を突き止め、森蘭丸を討つ」とある。 信長を槍で攻撃し、行く手を阻んだ森成利〈蘭丸〉に十文字槍で下腹部を突かれるも、これを討ち取る功を挙げたという武勇伝がある。

 江戸時代に、本能寺の変は、歌舞伎や浄瑠璃の演目として「忠臣蔵」と並んで人気が高かった。このことからもわかるように、戦のない安定した社会が続いた江戸時代には、庶民の間に戦国時代や武将への憧れが生まれていた。そうした中で、猛将としての作兵衛のイメージが一人歩きしていったという。