ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1619話 肥前の熊・龍蔵寺隆信

序文・九州三強

                               堀口尚次

 

 龍造寺隆信は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。肥前国の戦国大名。「九州三強の一人」や「肥前の熊」、「五州二島の大守」 などの異名が有名。また、曾祖父から曾孫への家督継承という戦国時代以外でもそう類を見ない例を成功させている。

 龍造寺嫡家は途絶えたとされるが、龍造寺一門のその子孫や後裔は現在の佐賀県・長崎県諫早市・大村市などに点在するとされている。鍋島直茂は隆信の義弟である。

 仏門にいた時期は中納言円月坊を称し、還俗後は初め胤信(たねのぶ)を名乗り、大内義隆から偏諱をうけて隆胤(たかたね)、次いで隆信と改めた。

「五州二島の太守」の称号を自らは好んで用いたが、肥前の熊の異名をとった。少弐氏を下剋上で倒し、大友氏を破り、島津氏と並ぶ勢力を築き上げ、九州三強の一人として称されたが、島津・有馬氏の連合軍との戦い〈沖田畷の戦い〉で不覚をとり、敗死した。

 隆信の残した言葉として「分別も久しくすればねまる」というものがある。「ねまる」とは「腐る」の意で、熟慮も過ぎると却って期を逃したり、悪い結果になる事もあるので、ここぞという時は迅速な決断力が必要である、という意味である。この考えを実践した結果、一代で龍造寺家の版図を大きく広げた一方、少しでも疑いのある人物は次々に処断したりと人望を失う行為も多々行っており、良くも悪くも隆信の人生を左右する結果となった。

 若い頃から何度も肥前を追われた経緯からか、疑心暗鬼にかられやすい冷酷な人物であったと言われている。そのために「肥前の熊」という渾名をつけられた。一方で、そうした冷酷非情さや狡猾さがあればこそ、肥前の一国人にすぎなかった龍造寺氏が、隆信一代で九州三強の一角にまでのし上がったのではないかという意見もある。

 島津軍に討ち取られた隆信の首級は、島津家久によって首実検された後、龍造寺家が首級の受け取りを拒否したため、願行寺〈玉名市〉に葬られたと言われる。現在、隆信の公式の墓所は鍋島氏と同じ佐賀県高伝寺にあるが、戦いで討ち取られた首の行方には諸説あり、「隆信の塚」と称する物が長崎県や佐賀県内に散在している。